そういうわけで、私のオースチンも杉並区成宗(今の成田東)の解体屋で、あと1 日遅ければスクラップにされるのを5 万円で救い出してきたから、どんなポンコツだったか想像できるでしょう。まるで悪童どもから亀を助けた浦島太郎みたいなもんです。今じゃどんな中古車でも、あんなにボロいのなんかありません。どれもピッカピカですもんね。
でもポンコツだったのは私が貧乏学生だったからで、その8 年前に作られた時はもちろん新品だったわけで、庶民にとっちゃ目の眩むような高級車でした。たしか新車は100万円だったと記憶してますが、当時それだけあれば郊外に土地付きの一戸建てが買えたんだそうです。そもそも100 万円なんて「あり得ないこと」の代名詞で、私たちも子供のころ、「嘘ついたら100万円あげる」てなこと言ってました。それを5 万円で買ってんだから、ボロボロで当たり前ですよね。
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いや、別にポンコツ自慢をするんじゃなく、1950年代の当時って、こうして欧米の自動車先進国から技術導入して、日本のメーカーが必死で勉強する時代だったんです。日産がオースチンと組んだほか、日野(今ではトヨタの子会社としてバスとトラック専門ですが)はフランスのルノーと、いすゞ(これも乗用車を止めちゃいましたけど)がイギリスのヒルマンと組んでました。三菱はアメリカのウィリスからジープの製造権を買って、それが今のパジェロへとつながってるわけ。同時にウィリスの乗用車も短期間だけ手がけたりしてましたっけ。そんな中でトヨタだけは純国産にこだわって外国から技術導入しませんでしたが、そもそも戦前に豊田喜一郎が自動車生産を志した時、デトロイトに留学してフォードの大量生産方式を学んで来たのだから、先進国から取り入れたという意味では同じかもしれません。
だからといって、日本に技術的な素地がなかったわけじゃないんです。「日本には優秀な航空機技術者がたくさんいたが、敗戦で空への夢を絶たれたため、自動車産業に流入した」なんて話、聞いたことがあるでしょう。今や日本を代表する大衆車カローラをはじめ初期のスバルやプリンス(後に日産と合併)も、そんな飛行機屋さんたちの力作でした。でも軍用機と民間用の快適な乗用車ではまったく条件も違うので、50年代の日本のクルマは、はっきり言って情ないものが多かったんですね。そこで欧米に学ぼうって動きになったんです。
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で、当然そういうクルマって、みんな憧れるじゃないですか。でも高価だから買えないじゃないですか。ってことは中古車ってことになりますよね。でも当時はモノのない時代だから、みんな絞りカスになるまで使うんで、程度のいい中古なんて珍しいんです。庶民の手が届くのは、さんざんタクシーで使ったなれの果てだったりで、そういうのを「タク上げ」とか「タク上がり」とか呼んでました。クルマ雑誌にも「タク上がりの見分け方」なんて記事、載ってましたもん。またそれを日曜整備で直すハウツー記事もあって、そのタイトルが「それでもクルマは動く」なんていうんだから、今じゃ信じられませんよね。
そんな時代のちょっと後ぐらいなんで、いくらポンコツでもオースチンなもんだから、もう私は大いばり。それにこのオースチン、ちゃんと手入れしてやると、信じられないぐらいよく走ってくれたんです。ほんと、ちょっと近所に行くにも、とにかくオースチンといっしょでしたね。まるでバカみたいだけど、私が今こんなにクルマの蘊蓄たれるようになったのも、すべてこのクルマがスタートだったんで、来週はもう少し詳しく思い出など書いてみましょう。
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| 熊さんが救い出したオースチンA50は、元々はこんなクルマでした。ちなみにこの写真、トヨタ博物館に展示してあるクルマなんですが、本文中にもありますように日産とオースチン社の提携によって生産されていたもの。日本の自動車史に残る一台として、世界のトヨタがミュージアムに展示しているのです。他にも興味深いクルマが色々と飾られておりますので、ぜひ一度足を運んでみてください。 |
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