私、某クルマ雑誌で映画に出てくるクルマを解説する連載やってるんです。たいていの場合ちょっと古い映画と、ちょっと古いクルマなんですが、こういうのって、時々すごいデジャヴ(既視感)があったりします。
先月の場合、ネタになった映画が「ニューシネマ・パラダイス」だったんです。日本でも大ヒットしたから、覚えている人、多いんじゃないですか。その記事を書くんで、私もあらためてビデオをチェックしたんですが、もうババーッとタイムスリップしちゃいましたよ。あの中に、子供のころの私がいたんだもん。映画の舞台はイタリア、シシリー島の小さな村でこっちは西荻窪だけど、そんなこと関係なし。昔の子供にとって、映画って、あんなに輝いてたんだなあって、あらためて思いでに耽っちゃいました。ま、テレビが普及するまでは、ほかに娯楽なんてなかったしね。
そういうわけで「西荻窪駅前自動車研究所」といたしましては、今回とことんローカルな話題で迫ってみたいわけです。こんな場合は時代も西暦でなく元号で言ったほうがわかりやすいでしょう。昭和20年代の終わりから30年代にかけて、「西荻北銀座」といえば地元じゃ最も賑わった界隈でした。北があるってことは「西荻南銀座」もあったんですが、子供だけじゃなく大人にとっても、そっちはよその土地って感覚だったみたい。まだ中央線が高架になる前だったんで、わざわざ踏み切りを渡って行くのは、なんか違ったんでしょうねえ。
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その西荻北銀座を駅から青梅街道に向かって100mほど行った左側、今は日産レンタカーになってるところが「西荻館」という映画館でした。子供の目には立派でしたが、戦後あまりたってない時代ですから、そこそこテキトーな建物だったのかもしれません。それはともかく中に入ると、もう外界とは隔絶したドリームランドでした。赤いフェルト張りの椅子におさまると、後ろの二階の小窓から強烈な光線が飛んで行って、35mmスタンダードサイズのスクリーンがだんだん明るくなるの。映写機の回る音がカシャカシャかすかに聞こえて、画面にパッパッと5 、4 、3 とか数字や菱形が瞬いて、まずニュースが始まるんですが、水害とかの光景の向こうに流れるアナウンス、なんであんなに抑えた一本調子だったんでしょう。
そんな画面に見入る子供時代の私は、「ニューシネマ・パラダイス」の中の主人公の少年とまったく同じ。上映が一回終わると、裏口で待っていたおじさん(いや、お兄さんだったのかもしれません)が丸く平たい金属製のフィルム缶を自転車の後ろにゴム紐で縛りつけて、大急ぎで出て行きました。桃井第三小学校の北側の道を東に向かってましたから、たぶん荻窪あたりの映画館に届けてたんでしょう。入れ代わりにそっちからもフィルム缶を積んだ自転車が来て次回の上映に間に合うってわけ。都心の豪華な映画館じゃなく、西荻窪あたりじゃ充分なプリントも回って来なかったんで、こうして隣街の映画館どうしでやりくりしてたんでしょう。「ニューシネマ・パラダイス」の中にもそんなシーンがあって、思わず「そうそう」とか手をたたいてしまいました。
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その西荻館は、その後「西荻東映」になって、親にせがんで「宇宙人東京に現る」とか観に行った記憶があります。ヒトデの真ん中に巨大な眼が一つある宇宙人が、えらくキモかったもんです。そういえば映画館って、すごくデカい看板があって、そこに絵が描いてありましたよね。私の記憶にある西荻東映の場合、中村錦之介(後の萬屋錦之介)とか東千代之介とか、ほんと、写真のようによく似て描けていました。でも看板屋のおじさんは、すぐ目の前であんな巨大な顔を描いてたんだから、どうやって全体のイメージを掴んでたんでしょう。
おもしろいのは洋画の映画館でも、看板の描き方が同じだったこと。だいぶ後になって線路ぎわ、つまり西荻窪駅北口広場から東に向かって、今のサンジェルマンの横を入った右側に洋画専門館もできたんですが、そのころ中学生になった私ぐらいだと、そっちの方が未知の大人の世界っぽくて、前を通るたびに胸が締めつけられるような気がしたもんです。今にくらべりゃ他愛ないもんですが、イングマル・ベルイマン監督の「処女の泉」なんて題名だけでドキドキして、ガラス窓のケースの中に張り出されたモノクロのスチール写真を、盗み見るように見たりしてました。
もちろん、高度成長期からバブルとその崩壊を経た今、西荻窪に映画館があったことなんか、ほとんど誰も覚えてません。いつも言うけど、街って、変わっちゃうと、その前どうだったのか、記憶も急速に薄れちゃうんですね。確実に言えるのは、西荻窪の街(じゃなくて町)、けっして良い方には変わってないってことです。
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| ここが原稿に登場した「西荻北銀座」の入り口(JR西荻窪駅の前)です。そりゃまぁクマさんが子供のころとはずいぶん違うと思います。ン10年も経ってますからねぇ……。 |
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